嗚呼、南樺太

太平洋戦記

史実どおり南樺太を領有していますが、対ソ侵攻に伴って北樺太のアレクサンドロフスクからソ連軍が南侵してくるのに伴い、一時的に泣く泣く撤退します。理由は以下3点。

  • 南樺太には中途半端な兵力しか駐留していないので守り切れない。
  • かといって、輸送上の問題により本土から大兵力を投入するのは難しい。
  • シベリアのネルチンスクを攻略したうえで対ソ講和すれば、速攻で現状復帰できる。

南樺太の人口と気候

ゲーム内では大泊と敷香が拠点となっていますが、最大の都市(町?)は、唯一市制が敷かれた豊原(現ロシア施政下ではユジノサハリンスク)。日米戦開始直前(1941年12月1日)の時点で、豊原の人口は37,160人だったそうです。ただ同時点で、大泊(おおどまり)町:21,779人、敷香(しすか)町:30,310人であり、最大といっても“どんぐりの背比べ”で大差ありません。

南樺太全体の人口はといえば、1945年当時(詳細な日付は不明)で約40万人。どうやら各所に散らばって住んでしょうな。

北緯40度を軽く越えて50度に近い場所なので、さぞかし寒いと思われます。調べてみると、最寒月(1月)の平均最低気温は-19℃、最高気温は-8℃とのこと。最高でも氷点下です。ちなみに最暖月は8月で平均最高気温は22℃、最低気温は14℃。こちらは過ごしやすそうですね。

大泊町について

南端に近い大泊町。宗谷海峡を挟んだ北海道・稚内との間に、1923年から1945年まで「稚泊(ちはく)航路」と呼ばれる航路が開かれ、鉄道連絡船が運航されていました。所要時間は8時間。

大泊町について調べていると、興味深いサイトを見つけました。

戦前にインターネットが存在して公式サイトが開設されていたら、こんな感じだったのかと思われるような完成度の高いWebサイトです。

敷香町について

大泊から300キロ以上も北にあった当時日本最北の町。町の北端が日ソ国境(北緯50度線)ということで、軍事上の拠点とされ、陸軍第88師団(豊原)の戦闘指揮所や海軍の航空基地(上敷香)が置かれていたそうです。
ただしゲーム中では、1個連隊程度の陸兵が駐屯しているだけで、史実の再現はなされていません。飛行場規模もゼロだし。

札幌から敷香まで行く

ここ数日、樺太のことを調べながら、何やら郷愁めいたものを感じています。
樺太に渡ったことはないし、管理人は寒さに弱いのであまり行ってみたいとも思いません。それに、こういう言い方は失礼かもしれませんが、ロシア語に埋め尽くされた最果ての町には、特に魅力を感じないのです。
叶わぬ夢ながら、当時の樺太を旅してみたい。失われたものに対する憧憬ですね。

ということで、もし当時、札幌から敷香まで移動するとなるとどのような行程になるのか、調べてみました。

まず、戦前の鉄道による札幌~稚内移動ですが、いきなりつまずきました。
とにかくネット上に情報がない。
ただ現在でも、特急「ライラック」と同「サロベツ」で、函館本線と宗谷本線を走破しても5時間以上かかるため、当時だと早朝に札幌を出発して夜遅くに稚内着というのが妥当なところでは?

稚内で一泊した翌日、前述の稚泊連絡船を利用して樺太に向かいます。
1938年以降、稚内側では稚内桟橋駅という仮乗降場が設けられ、列車が船に横付けできるようになっていたそうです。

昭和17年11月15日以降(?)7月16日から5月14日の間の運航ダイヤは、稚内8時発~大泊16時着だったみたい。8時間かけて宗谷海峡を横断します。

大泊側も桟橋上に大泊港駅が設けられ、樺太東線と接続していたとのことなので、2時間45分もの待ち時間に耐えて、18時45分発の列車でさらに北へ。

列車は夜通し樺太東線を走り抜けて、3日目の朝7時26分に最北の町・敷香到着。

できるだけ国境に近づこうとするなら、敷香から国境線の南17キロに位置する古屯(ことん)という駅まで。軍事路線という扱いだったようで、時刻表は当時も公開されていませんでしたが、ここが鉄路の終点です。

さて、現在の樺太(サハリン)への渡航ですが、稚内からの船便は今年から休止された模様
敗戦による稚泊航路の途絶以来、稚内と大泊(コルサコフ)間の定期航路は存在していませんでしたが、1995年にロシアの船会社によって航路が復活し、その後、運営母体を変えながらも夏季限定の定期便が就航していました。しかし乗船率の低迷により、運航休止を余儀なくされたとのこと。残念です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました