防長計略も峠を越えた。「防長」とは言いつつも、当面は長門に侵攻するつもりはなくて、周防だけ領有の予定。この段階で大友と直に接触するのは、どうも落ち着かない。

一方、1557年末から1558年中盤にかけて外交攻勢をかけまくり、安芸・備後をほぼ支配下に収めた。臣従または従属させた勢力は
【安芸】世能阿曽沼家、平賀家、生城山天野家、堀財崎天野家、西條衆
【備後】因島村上家、馬屋原家、和智家、木梨椙原家、有地宮家、古志家、江田家、三吉家、山内家、久代宮家
【備中】荘家
【周防】椙杜家
【石見】佐波家

これで臣従含めた石高は34万石を超え、全国上位10位以内に入った。あんなになだめてもすかしても、そよとも靡かなかった阿曽沼をはじめとする安芸・備後の国人衆の態度はいったい何だったのか。
北の尼子に目立った動きはない。東の方、但馬あたりで何かやっている模様。
東といえば、どういうわけか阿波から三好が進出してきている。備中・高越山城に集結した三好の陣容を見てみると、錚々たる面々です。

どういうつもりかわからんが、笠岡山城を占拠しているのが気に食わん。備中西部における要衝という位置づけなので、わが手中にしておきたいのだが。尼子がおとなしくしているうちに、ここで三好と一戦交えたほうがいいのかな。不戦同盟の破棄というリスクはあるが、四国や紀伊方面における三好との敵対勢力と誼を通じて、ちょっかいを出してみるか。
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