第19話:陶家当主・四宮光行の謎

戦国史

1556年9月

志道広良、病没。

史実より若干早く不帰の客となられた。いずれにせよ90歳超えの大往生。毛利家中では宰相、戦場では軍師として元就の絶大な信頼を得ていた。元就の嫡男・隆元に主君としての心得を説いた「君は船、臣は水」(主君は船で家臣は水であり、水がなければ船は浮かばない)の言葉は有名。

豊作だった(^^)

室町・戦国期の農業の発展について少し。

中世後期に入ると、農民たちが強固な紐帯で結ばれた惣村を創り上げ、宮座という農耕に関わる祭祀組織をもち、文字を用いて資料を残すようになった。そして、農民自らがすべての生産過程に直接関与し、生産条件を自らが管理するに至って、農業は飛躍的な発展をみた。

治水・水利
  • 氾濫原への築堤や、海水の侵入を防ぐ塩堤の築造などが行われた。
  • 山間部や丘陵地帯では溜池が築かれ、平地部では大河川からの用水路の設置が行われた。
  • 用水の管理・運営権を農民が握り、水の分配を農業労働の現実に即して行えるようになった。
  • 運河から自転式の揚水車で水田に水を汲み上げていた。
益畜の利用と害獣の排除
  • 農民による牛馬の所有が進み、これを利用して鉄製の犂を使った犂返しが行われていた。
  • 鳴子などを用いて鳥獣を駆除した。
肥料
  • 平安期から肥灰などが用いられていたが、田植え後の追肥に草木肥を用いるなど普及が進んだ。
  • 人糞を用いた形跡も残されている。
品種改良
  • 鎌倉末期には耐旱性や耐水性に強く、早熟で肥料も少なくてすむ大唐米の導入が始まった。

こうした農業技術の進歩の結果、室町時代には水田の裏作を二度行うという三毛作さえ可能となっていた。

参考:クロニック戦国全史

荘為資らが備後・銀山城に来襲。銀山城は木梨杉原氏の一族が築城したと伝えられ、以後、山手杉原氏が代々居城とした。

荘(庄)氏のルーツは、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国に割拠していた同族的武士団「武蔵七党」の最大勢力「児玉党」。鎌倉時代初期に西に下り、備中国の有力な国人となった。その荘氏の最盛期が荘為資時代。

1556年10月

備後方面に駐留していた武将を銀山城救援に向かわせた。

周防・鞍掛山城を攻略。

史実では、鞍掛(山)城主の杉隆泰は偽りの降伏を申し出てきたが、帰順直後の蓮華山城主・椙杜隆康はこれを元就に注進。結局、杉隆泰は毛利軍に討ち取られたという。

1556年11月

八海山城付近の海陸戦。

八海山城を攻略。この城は標高233メートルの山頂に位置する山城だが、ゲーム上では港を有している。海賊衆であった光井氏の居城ということなので、それでいいのかも。

1556年12月

椙杜家と不戦同盟締結。
周防蓮華山城主・椙杜(すぎのもり)隆康は、大寧寺の変後は大内義長-陶晴賢ラインに従う形となったが、もともと晴賢に含むところがあったらしく、元就による防長侵攻が始まると、あっさり毛利に帰順している。

1557年3月

益田氏と不戦同盟。
益田氏の現当主は益田尹兼。史実では後継者の藤兼が毛利に帰順することになるのだが……。一説によると、吉川元春が藤兼の武勇を惜しんで助命したという。

1557年4月

元就、従五位下隠岐守に叙位任官。
叙任と同時に資金が100000近く減ったのだが、何か関係あるのかな? 叙任費用だとか。

嶋末城を攻略して、陶家当主・陶長房を捕虜にしたところ……

四宮光行という武将が、なんと陶家当主になった。

この人、謎の人物である。現在の所属は確かに陶家なのだが、武将解説では「所属:寒川家、登場城:讃岐引田城」となっている。検索しても出てこないし……よくわからん。というか、もはや「陶家」を名乗る意味ないじゃん。

コメント

タイトルとURLをコピーしました