1556年9月
志道広良、病没。
史実より若干早く不帰の客となられた。いずれにせよ90歳超えの大往生。毛利家中では宰相、戦場では軍師として元就の絶大な信頼を得ていた。元就の嫡男・隆元に主君としての心得を説いた「君は船、臣は水」(主君は船で家臣は水であり、水がなければ船は浮かばない)の言葉は有名。
豊作だった(^^)
室町・戦国期の農業の発展について少し。
中世後期に入ると、農民たちが強固な紐帯で結ばれた惣村を創り上げ、宮座という農耕に関わる祭祀組織をもち、文字を用いて資料を残すようになった。そして、農民自らがすべての生産過程に直接関与し、生産条件を自らが管理するに至って、農業は飛躍的な発展をみた。
こうした農業技術の進歩の結果、室町時代には水田の裏作を二度行うという三毛作さえ可能となっていた。
参考:クロニック戦国全史
荘為資らが備後・銀山城に来襲。銀山城は木梨杉原氏の一族が築城したと伝えられ、以後、山手杉原氏が代々居城とした。
荘(庄)氏のルーツは、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国に割拠していた同族的武士団「武蔵七党」の最大勢力「児玉党」。鎌倉時代初期に西に下り、備中国の有力な国人となった。その荘氏の最盛期が荘為資時代。
1556年10月
備後方面に駐留していた武将を銀山城救援に向かわせた。
周防・鞍掛山城を攻略。
史実では、鞍掛(山)城主の杉隆泰は偽りの降伏を申し出てきたが、帰順直後の蓮華山城主・椙杜隆康はこれを元就に注進。結局、杉隆泰は毛利軍に討ち取られたという。
1556年11月
八海山城付近の海陸戦。
八海山城を攻略。この城は標高233メートルの山頂に位置する山城だが、ゲーム上では港を有している。海賊衆であった光井氏の居城ということなので、それでいいのかも。
1556年12月
椙杜家と不戦同盟締結。
周防蓮華山城主・椙杜(すぎのもり)隆康は、大寧寺の変後は大内義長-陶晴賢ラインに従う形となったが、もともと晴賢に含むところがあったらしく、元就による防長侵攻が始まると、あっさり毛利に帰順している。
1557年3月
益田氏と不戦同盟。
益田氏の現当主は益田尹兼。史実では後継者の藤兼が毛利に帰順することになるのだが……。一説によると、吉川元春が藤兼の武勇を惜しんで助命したという。
1557年4月
元就、従五位下隠岐守に叙位任官。
叙任と同時に資金が100000近く減ったのだが、何か関係あるのかな? 叙任費用だとか。
嶋末城を攻略して、陶家当主・陶長房を捕虜にしたところ……
四宮光行という武将が、なんと陶家当主になった。
この人、謎の人物である。現在の所属は確かに陶家なのだが、武将解説では「所属:寒川家、登場城:讃岐引田城」となっている。検索しても出てこないし……よくわからん。というか、もはや「陶家」を名乗る意味ないじゃん。
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