1556年2月から3月にかけて、史実とは大きく様相を異にする「厳島合戦」が発生。戦いの経過は二段階に分かれる。
第1段階:1556年2月
勝山城に立て籠もる陶長房以下4000余の陶軍を討つため、周防・亀尾城と安芸・草津城から計3500余の毛利軍が出撃。総大将は小早川隆景。

数の上では陶軍が優勢だが、個々の武将の武勇値は毛利軍が上回っており、加えて小早川隆景は野戦統率力8、浦(乃美)宗勝が水軍統率力7という図抜けた値を示しているため、互角というよりやや毛利軍有利の情勢。
【乃美宗勝】
『毛利元就「猛悪無道」と呼ばれた男』より
小早川家臣。妹は因島村上吉充の妻。乃美氏は沼田小早川氏の庶流。隆景の小早川継承を支援して腹心となる。弘治元年(1555年)の厳島の戦いで能島村上武吉を説得し、毛利陣営に導いたキーマンでもある。小早川水軍~毛利水軍の提督となって活躍。特に門司城や立花城など大友宗麟との戦いで軍功。朝鮮出兵にも参陣した。
案の定、水上の戦いでの不利を悟った陶軍は城外での野戦を選択したが、これに毛利軍は辛勝。

再び籠城策を採った陶軍に対し、毛利軍は城を包囲して兵糧攻めに。
第2段階:1556年3月
問題の兵糧だが、勝山城の備蓄は5000。籠城する兵数は3000余なので2ヶ月も保たない。それがわかっていて籠城戦に打って出た陶軍が愚かと言えばそれまでなのだが、結局……

陶長房・寺本玄蕃・四宮光行は辛くも脱出したが、残る10名の武将は投降。取りあえず捕虜に。これで陶家に所属する武将は、現時点で残りわずか3名となった。

毛利軍が広島湾(※注意)を制圧。小早川隆景を中心とする毛利水軍の強靭さが目立つ戦いであった。

もちろん当時は「広島湾」という呼称ではない。この時代の広島湾(安摩庄五箇浦?)の姿を考察した興味深い資料を見つけたのでリンクを張っておく。『しろうや!広島城』
今後は防長経略に移る。まず周防路は右田岳城までの諸城攻略を目標としよう。長州に攻め込むか否かは、その時点での情勢次第だな。

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