【1553年(天文22年)7月】
矢野城落城。
陶家の杉隆相は討ち死にしました
陶家の弘中隆助は切腹しました
その他の陶家の主力武将は、ごっそり投降してくれました。
毛利家の捕虜収容所は有名武将のコレクション状態。その結果、陶家の当主は陶持長(隆満)に…。
大内氏と毛利氏の関係が破綻し、一族の陶晴賢が毛利氏攻めを行った際には、周防で留守居役を務める。しかし、天文24年(1555年)の厳島の戦いで、陶晴賢(隆房より改名)は毛利元就に敗北し自害する。その後、隆満は周防に侵入してきた毛利氏に降伏し、その家臣となった。没年不詳。「Wikipedia 陶隆満」より
【1553年(天文22年)8月】
【村上(来島)通康】
来島村上氏当主。来島水軍は直属の警固衆として伊予河野氏に仕える。妻は河野通直(弾正少弼)の娘。娘は村上武吉の妻。対大内水軍はじめ、数々の合戦で武勲を上げた。一時通直が世継ぎにしようとしたほどの人物。弘治元年(1555年)、厳島合戦で水軍を率いて元就に協力。以後は毛利方として活躍。死の間際、元就に河野氏への支援を頼む。「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男」より
来島が臣従を申し入れてきたのは、伊予石川家の攻勢に耐えかねてという事情のようだ。
続いて……
金子氏は、史実では羽柴秀吉による四国攻めの際に、秀吉配下の小早川隆景率いる毛利軍と交戦し、コテンパンにやられています。
【1553年(天文22年)9月】
せっかく当家を見込んで臣従してくれたのだから、ここはひとつ波方城に兵を出して伊予石川家の軍勢を追い払おう。来島を見捨てると、能島・因島との関係まで微妙になってしまうから。
【1553年(天文22年)10月】
来る者は拒まず、受け入れよう。
三子山城落城。
鳥籠山城落城。
波方城に今度は河野家の軍勢が攻め込んできた。史実と同様、この世界でも当初は河野家に従属していた来島だったが、いつの間にか従属を脱している。河野にしてみれば意趣返しといったところか。
それにしても、ここで河野家と事を構えることになるとは予想外。戦略変更を余儀なくされるな。
石見銀山を早く手に入れたいので、大殿・元就と吉川元春を中心に石見攻略は進めるとして、小早川隆景らは草津城に駐屯させて河野対策にあて、隆元らには小倉山城か日野山城あたりで陰陽どちらにも駆けつけられる態勢をとらせておくか。防長経略は石見攻略後に先送りだ。
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