【1552年(天文21年)5月】
包囲網イベント発動。対象は小田原北条家(当主・北条氏康)。
依然、有崎城を包囲しているわけだが、陶方の援軍が到着した。菅田宣真・宣種父子。彼らはもともと大内義隆派なので陶晴賢に反旗を翻すはずなんだけど、この世界ではちゃっかり勝ち馬に乗っかったのかな。
福原貞俊、意外にも智謀が高く、奇襲で撃退。
総攻撃で丸屋城陥落。
築城年代は定かではないが多賀谷景茂によって築かれたと云われる。 蒲刈多賀谷氏は関東の千葉氏一族で、観応2年・正平6年(1351年)に伊予国周桑郡北条郷の地頭であった多賀谷氏が、下蒲刈島にきて築城したのが始まりという。同族に倉橋島の丸子山城を拠点とした倉橋多賀谷氏がいる。「城郭放浪記 安芸・丸屋城」より
【1552年(天文21年)6月】
この城替えにはいくつかの理由が考えられるが、主のものは次の二点である。
その一つは、戦闘が日常化した戦国末期の情勢に備え、居館を山上に上げるには新高山のほうが地形的に適していたこと、さらに最大の要因としては、毛利水軍の総指揮を執ることになった隆景にとって、できるだけ海への眺望が開け、沼田川を遡行する軍船の発着が容易な新高山城に本拠を移した方が有利と判断したからと思われる。「歴史群像シリーズ⑨ 毛利元就」より
さて、本格的に陶の勢力を安芸から駆逐するとしようか。
金山城攻めに着手。総大将は児玉就忠。
承久3年(1221年)武田信宗によって築かれた。
安芸武田氏は甲斐武田氏が承久の乱による恩賞として安芸守護に任命されたことにより始まる。戦国時代に入り武田氏は安芸南部の豪族である高松山城熊谷氏、八木城主香川氏、平原城主己斐氏などを家臣化するが安芸一国を率いることはできず大内氏に従っていた。
しかし武田氏は大内氏に反旗を翻し安芸を支配すべく安芸北部に進出する。二度目の有田城合戦では武田元繁が逆に大内の命で出陣した毛利元就に討たれ戦死する。その子光和は尼子氏と結んで大内氏に対抗するが天文10年(1541年)大内氏の命を受けた毛利元就に攻められ落城し滅亡した。「城郭放浪記 安芸・銀山城」より
【1552年(天文21年)7月】
おお、よしよし。ようやく御屋形様のシンパが蜂起したわい。
ゲームと同様に史実でも、菅田宣真・宣種父子、尾和秀義、大林隆廉、財満隆久らが陶晴賢に抗って挙兵。晴賢は元就に鎮圧を命じたが、元就自身は病気と称して戦には赴かず、隆元を総大将として派遣したそうな。結果的に、城主・菅田宣真らは城兵の助命と引き換えに自決。槌山城は落城した。
有崎城(築城主をはじめ詳細不明)も攻略成功。
【1552年(天文21年)8月】
案の定というか予想どおりというか……陶の軍勢が重富城にちょっかいを出してきた。
宍道隆慶…もとは尼子詮久に仕えていたが、第一次月山富田城合戦の際に大内側に寝返ったらしい。「大寧寺の変」後は陶晴賢に、毛利軍の防長経略後は毛利氏に従った。
加来統直…大友家臣のようだけど、1588年の「大畑城の戦い」で黒田孝高勢の攻撃を受けて討死した。そんな人がどういう経緯で陶の配下になったのかは不明。
重富城の城番は口羽通良。奮闘してくれてはいるが、兵糧が乏しくなってきた。来月には吉川元春以下の救援部隊を差し向けるとしよう。
【1552年(天文21年)9月】
陶勢に包囲されている重富城に吉川元春と口羽春良(通良の嫡男)を派遣。期待にたがわぬ活躍で、あっさり敵を撃退。
逆に毛利方が包囲している金山城はこんな具合。
【1552年(天文21年)10月】
陶軍、メンバーを代えて重富城に再度現る。なかなかしつこいな。
ちなみに陶隆弘は、同じ陶でも「大寧寺の変」で大内義隆側について死んだんだけどね。
一方で、金山城はいただきました。
【1552年(天文21年)11月】
山陽における最西端の対陶防衛拠点となる草津城。いよいよ攻略を始める。
戦国時代には、当初、厳島神社神主家(藤原氏)配下の神領衆・羽仁氏が居城したが、その後安芸守護家たる武田氏、ついで大内氏・陶氏の勢力圏に入った。1554年(天文23年)、毛利氏は無血で城番の羽仁有繁を追い落としこの城を支配下に収めた(防芸引分)。
毛利氏は水軍の将である重臣・児玉氏を草津城代に配置、児玉就方、児玉就英と続く。児玉氏支配下で城の南に位置する草津湊は広島湾を警護する毛利水軍の基地となり、草津の町も大いに繁栄した。
しかし関ヶ原の戦いによる毛利氏の防長移封後、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城を壊したとされている。「Wikipedia 草津城」
【1552年(天文21年)12月】
草津城への攻撃続行。
陶家の山崎隆方は討ち死にしました
陶家の宇野正常は討ち死にしました
この2人の武将、ググっても出てこん。
コメント