【1549年(天文18年)1月】
年が改まったところで、この男が表舞台に姿を現しました。
交易船が肥前平戸から帰港。
派遣費用が1000貫×2隻=2000貫で、収益2320貫なので、320貫の黒字。よしよし。
【1549年(天文18年)2月】
大内義隆に従属する福屋隆兼の石見・三子山城が尼子勢に…。尼子がこの城を奪うと厄介なことになりそうな気がする。ちなみに、昨年12月に登場した吉川家臣の森脇春方は、この城の城主になるはず。ここは一つ、大内に動いてもらいたいんだが、大内はどうやら大友との抗争に忙殺されているようだ。
【1549年(天文18年)3月】
この年3月6日、家康の父の岡崎城主・松平広忠が側近の岩松八弥に殺害された。八弥は植村新六郎に討ちとられたが、この混乱に乗じた今川氏は、岡崎に太原崇孚らを送り込んだ。
これ以後、三河は今川氏の保護領となり、家康は駿府で10年間の人質生活を送ることになる。「クロニック戦国全史」より
【1549年(天文18年)4月】
農繁期だから仕方ないよな。
織田信長によって兵農分離が行われるまで、兵の大半は戦いのない時には農業を営む半士半農の武士でしたからね。戦を行うのはおもに農閑期で、種蒔き時期や収穫時期などの農繁期に「軍勢催促」(農作業に従事する領主や地侍などに対し、その所領に比例した兵力の提出を大名が通達すること)を出すことはできるだけ避けなくてはならなかったわけです。
【1549年(天文18年)5月】
それにしても、交易船収入は大きい。これがないと資金が回らん。
福屋氏の三子山城、持ちこたえられませんでした。
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【1549年(天文18年)7月】
山内家と久代宮家が不戦同盟を締結。先月、山内豊通らが久代宮家の大富山城を落としたんだよね。獲るもの獲って、ちゃっかり講和か。
【1549年(天文18年)8月】
約20年後、浦上宗景は宇喜多直家に寝首をかかれることになるんだけど……。
【1549年(天文18年)10月】
大友家と大内家は不戦同盟を結んだ模様。さて、これが中国路にどう影響するか。
【1550年(天文19年)1月】
【1550年(天文19年)2月】
義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城家の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、家中からの大内氏の勢力排除のために計画された事であるとも考えられている。二階崩れの変は、一般的には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると考えられているが、義鎮が陰で動いていたとも言われている。「Wikipedia 二階崩れの変」より
大内軍が海路、石見・三子山城に殴り込み。大内-大友講和の結果、攻撃の矛先を東の尼子に向けてきたようだ。
大内勢の内訳を見ても、誰が総大将なのかよくわからん。
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